OSS に対するお気持ち表明

お気持ちの表明です。それ以上でもそれ以下でもありません。

パクリについて#

なんでこんな記事を書こうと思ったのかと言うと(もう結構前のことになってしまったが)、特定の OSS を改変したサイトなどに対してパクリと評したツイートがあった。それに対して過剰に批判したり、怒りを表明したりといったソフトウェアエンジニア、あるいは OSS に関する知識をある程度持っている人を何人か観測したからだ。

まず大前提として、わたし自身もソフトウェアエンジニアであり、OSS には日々接している。すべてはないが、個人で書いたコードの一部は MIT ライセンスなどのライセンスのもとで公開していることが多い。だから、例えば MIT ライセンスのもとで公開されている HTML/CSS のコードを再利用し、自身のホームページを製作しても法的には問題ないであろうということ1は重々承知している。

それではわたしが「パクリである」という誹りに怒りを覚えているかと言うと、実はそうでもない。それなりに仕方がないことだと思っている。

「パクり」という言葉をいつ使うか#

まず「パクリ」という言葉をいつ使うかを思い起こしてほしい。おそらく表象、プログラマっぽくいえばインターフェースを似せて作ったときに「パクった」という言葉を使うと思う。内部状態に関するコードがいくら似ていてもあんまりパクったとは思わない。むしろ全然違うオブジェクトを対象にしているにもかかわらず、API の JSON の形式を真似たときにパクったと言うのではないかと思う。

で、件の「パクリ」発言は何に対してなされたかというと、HP のデザインに対してなされたものだ。コードで言えば HTML/CSS(/JavaScript) に相当する内容だ。まさしく表象である。誰でも表象に対して似てる/似てないは判断できる。だからパクリだと言われたのだろう。

「パクり」であることと「違法」であることは違う#

そして、パクリとは本来「盗作だ」ということを意図した発言だと思われるかもしれないが、パクるという言葉自体はもっとカジュアルに使われている、と少なくともわたしは認識している。「MacBook Airをパクったデザインのラップトップ」で思い浮かぶ製品があるだろうが、決して Apple が訴訟を起こした商品ばかりではない。デザインが似ていること(一般人にはパクリに見えること)と、それが違法と判断されることには大きな乖離がある。

なので、「このサイトとこのサイトは似ている!パクリだ!」という主張に対して「MIT ライセンスのもとで公開されているソースコードを再利用なので問題ないですよ」というのはあまりに的外れな回答だとわたしは思う。パクリのように見えるけれども違法とは判断されていないことなんてこの世にたくさんあるが、だからといって全ての人間が違法ではないから問題はないと思うわけではない。たとえ作者が許可したのであってもデザインを似せるのはよくないと思うという価値観の人がいたとして不思議ではないし、その価値観自体には何の問題もない2。何より、人は善とか悪とかを合法とか違法とかで判断しているのではない3。その人ごとの基準で判断しているはずだ。

OSS は自明ではない#

まずパクリ発言が話題だったのでそれに対する見解を述べた。けど、正直わたしはこの話どうでも良いと思っている。それよりも、OSS という枠組みが決して自明なものではないにもかかわらず、自分たちの「常識」を他の人にも強要している姿勢のほうがずっと気にかかる。

権利を放棄することの異常さ#

ソフトウェアも創作物のひとつだ。小説を書いたときのように、絵や漫画を書いたときのように、音楽創ったときのように、あなたがソフトウェアを制作したならば、著作権は作者の意思に関係なくひっついてくる4。そして権利を放棄することは、実は結構難しい。著作権や著作人格権については、国によって法律が違うなどの事情もある。

CC0について ― “いかなる権利も保有しない” | クリエイティブ・コモンズ・ジャパン

そして OSS ライセンスというのは単に権利を放棄するのではなく、「一定の条件下でユーザーに改変・再配布を許諾するが、その代わり責任は負わない」という宣言がなされているものがほとんどである。すべての権利を放棄するわけではない。しかし、作者が自ら権利を放棄する行動である。

さて、皆さんの周りで作者としての権利を放棄したいと言っているソフトウェアエンジニア以外の人を見たことがあるだろうか。星野源?そんなこともあったね。

でもおそらくほとんど見たことがないのではないかと思う。わたしはプロのミュージシャンが「自分の曲を自由に編曲して!」って言っているのを星野源以外から聞いたことないし5、画家、小説家、イラストレーター、映画監督、その他さまざまなクリエイターが自分の権利を放棄したいと言っているのを見たことは全くない。むしろ権利について厳格で、いざ盗作が起きたら訴訟沙汰にするのも辞さない勢いであることがほとんどだろう。

あとソフトウェアの世界でも、決して多いとは思わない。ソフトウェアをどのようなライセンスで配布するかは著作権者の一存でのみ決まるべきで、他の理由が介在してはならないと思う。ちなみにわたしの仕事もクローズドだ。もしソースコードを公開しようものなら即刻解雇だろう。

OSS の特殊性#

ところが、ソフトウェアの世界では、その権利を放棄する流派がある程度の存在感を持っている。自分の権利をある程度放棄することが、社会のためになる、自分のためになると信じられる人がほかの業界よりも存在感を持っている。

これをどう評価するかは置いておくとして、これはソフトウェア業界(のさらにごく一部)でしかコンセンサスが得られていない事象だ。まずそう認識しなければならない。人類は権利を放棄する営みに慣れていない(だからあまりルールがないし慣れていない)。

とにかく OSS というのは常識から外れた営みだ。外れているからこそ、その文化を知らない人と接したときにていねいに接しなければならない。というか、ソフトウェアの世界でもこれが最初から当たり前ではまったくなかった。90年代に人々を熱狂させたのは Microsoft の Windows であり UNIX 文化ではなかった。OSI や FSF が何十年にも渡って啓蒙をし続け、テックジャイアントも OSS の重要性を認識し始め、ここまでのものになったという歴史があるだろう。

何十年もの歴史を引き継ごうという我々が、そしてオープンであることを是とする自分たちが、OSS を初めて知った人に対して怒ったり、非常識だと嘲って対立してどうするよ。むしろ今度は、我々が先人たちの偉業を引き継ぐ番だろう。

終わりに#

途中まで書いて放棄していた下書きに少し加筆して公開した、ただの気持ちを書いた記事です。特定の誰かを否定したいわけでもないし、特定の事件について書いたつもりはありません。

言いたいのは、以下の2つ。

  • OSS 文化は特殊であると認識すること
  • 特殊性を認識せずに立ち入った人たちに対してもオープンに振る舞い、自分たちが是とすることを伝え続けること
  • 文化を知らない人たちと対立を煽るような言動は悪手だということ

わたしも OSS を使い始めて 3, 4 年経って初めて意味がわかり始めてきた。知らない人、直観的ではないと感じる人が居るのは当然だと思う。利用しながら正直よくわからんという人も大勢居るだろう。

OSS が公共性の高いソフトウェアやウェブサイトにまで活用され始めているのは良いことだと素直に思う。だからこの流れを崩さないためにも、少しではあっても OSS に関わり続けている人ができることを考えていきたい。そのためにすべきことは、OSS を知らない人を嘲笑うことでも、事態を誤認している人に怒りを表明することでも、対立を深めることでもないはずだ。

そんなことを考えている。


  1. 法律に反しているか否かは、本来は司法判断がなければわからないので、一般的には合法と判断されるであろうということと、合法であるということと、かつて合法であると判断された類似の案件が存在することは全て意味が異なる、ということに留意してこの表現にしている。 ↩︎

  2. 思想・信条は自由である。 ↩︎

  3. そもそも法は善や悪を定めるものではない。 ↩︎

  4. このブログ、実は文章に対してライセンスを明示していないが、原稿自体は GitHub に MIT ライセンス配下のリポジトリに置かれている。本当はブログ記事自体は Creative Commons にしようと思っているんだけど未だにやっていない。 ↩︎

  5. あれも問題のあるライセンスだとは思うが。 ↩︎